8月27日の礼拝の内容です。

礼拝

8月27日の礼拝の内容です。讃美歌は、6.327.528.573.88です。

礼拝説教  創世記25:19~34「失われ見出される」(小椋実央牧師)  2023.8.27

双子の兄弟、エサウとヤコブの兄弟げんかを、創世記は記しています。弟ヤコブにだまされて祝福を奪われてしまう、かわいそうな兄エサウ。その前段階として、兄のエサウが長子の権利を軽んじた、というのが今日の場面です。「長子の権利」とは平たく言うと父親から受け継ぐべき財産のこと。父イサク、祖父アブラハムの代からコツコツと築きあげて、蓄えてきた財産。そして一族の長としての責任。長男として、おそらく無条件で手に入るはずだった長子の権利を、エサウは空腹に耐えかねて一杯の煮物とひきかえに手放してしまいます。エサウがどのような人物か、そのことをよくあらわしている場面でもあります。

本日はご一緒に創世記を開きました。創世記は旧約聖書の一番最初の書物。創世記には、大きくわけて二つのことが記されています。1つは天地のはじまりについて。光や水や、そして生き物がどのようにつくられたのか。私たち人がどのようにつくられ、配置され、そしてつくられて早々に人が罪を重ねていく現実が記されています。創世記に記される二番目の出来事は、イスラエル民族のはじまりです。信仰の父と呼ばれるアブラハムから始まって、本日でてきたエサウとヤコブはアブラハムの孫にあたります。アブラハム、イサク、ヤコブと神の祝福がうけつがれ、イスラエル民族の歴史は神の救いの歴史へとつながっていきます。神の祝福は長男であるエサウではなく、弟のヤコブに受け継がれていくことになるのですが、今日は兄のエサウに焦点をあててみたいと思います。

父イサクと母リベカの間に生まれた双子の男の子。イサクとリベカはなかなか子どもに恵まれず、父イサクの篤い祈り、20年に及ぶ祈りの結果与えられた待望の赤子たち。その1人がエサウでした。エサウが母のお腹から出てきた時、肌の色が赤くて全身が毛皮のようであった、と25節に記されています。ヘブライ語で赤色のことをアドムと言うのだそうですけれども、後にエサウはエドム人の祖になった、と言われているのですが、アドムがエドムの語源になっている。また、毛皮のことをヘブライ語でセアルと発音するのですが、後々エドム人が定着するのがセイルの地であることがセアル、毛皮という言葉に暗示されています。兄のエサウがそのはじまりとなったと言われるエドム人ですが、聖書をたどっていきますとサムエル記、ダビデ王の時代にイスラエルに占領されてイスラエルの属国となります。二つの国民が争って、兄が弟に仕えるようになる、という23節の神の言葉はただ単に弟ヤコブが兄エサウの祝福を奪ったという家庭内の話にとどまらずに、民族同士の対立という形で実現していきます。イスラエルにとって非常に強い敵であったエドム人が、しかしイスラエルに支配される。その前触れであるかのように、兄のエサウと弟のヤコブの物語が進んでいきます。

イサクとリベカにようやく与えられた2人の男の子は、立派な青年へと成長します。兄のエサウは狩りの腕前をあげて、父イサクから愛されます。一方弟のヤコブは、当時は女性の仕事とされていたこまごまとした家のまわりの仕事の腕をあげて、母リベカから愛されます。この日も外を走り回ってくたくたにつかれた兄のエサウが帰ってきます。炊事場からはおいしそうな香りがただよっています。のぞいてみるとヤコブの姿が見えました。弟ヤコブが作る料理は、どれも絶品であることをエサウは知っていたのかもしれません。エサウは疲れ切っているのだから食べさせてほしい、とねだります。弟ヤコブは何年もこの瞬間を待ちわびていたのでしょう。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」ヤコブは交渉上手です。長子の権利とレンズ豆の煮物を交換しましょう、などとは一言も言っていません。まず、あなたの権利を手放しなさい。いったん手放して、そこで初めて、あなたとの契約に応じてもいいですよ。兄のエサウが自ら進んで長子の権利を譲るように誘導しています。

お腹がすいてたまらないエサウは、物事の順番などどうでもよくなっています。「あぁ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい。」冷静に考えれば長子の権利がどうでもよいはずはないし、そもそも一杯の煮物と交換できるような価値のものでもありません。しかし兄のエサウはそこまで考えが及ばなかったし、長子の権利という責任の重さを弟のヤコブほどには理解していなかったに違いありません。「エサウは飲み食いしたあげく立ち、去っていった。」(34節)飲み、食べ、立ち上がり、去っていった。ここは4つの動詞を重ねて、この場面を印象的に描いています。兄のエサウはじっくりと思いめぐらして行動に移すというタイプとは正反対で、考えるよりも先に行動してしまう。そのことを、飲み、食べ、立ち上がり、去っていく、と動詞で畳みかけるようにして兄エサウの人柄をあらわしています。

兄エサウと弟ヤコブの祝福をめぐる兄弟げんかの物語を読むたびに、どうにもエサウのことが哀れに思えてきます。エサウは少々考えが足らなくておっちょこちょいのところがあるのかもしれませんが、生まれる前から「兄が弟に仕えるようになる」と運命が定められている、というのは一体どういうことか。弟のヤコブは神さまから選ばれて、父イサクの祝福を受け継ぐようになるのだけれども、ヤコブが選ばれているということは兄のエサウははじめから退けられているのでしょうか。はじめから神に選ばれていない、神に見向きもされていないのだとしたら、私たちは一体どのように救われることが可能なのでしょうか。

エサウに全く芽がなかったわけではありません。特に何も努力せずとも、長子の権利として父イサクの2/3の財産はエサウのものになるはずでした。神の祝福が弟のヤコブにいってしまうことは免れることはできないけれども、父親の蓄え、この地上の財産だけはエサウのものになるはずでした。しかしエサウはそれを自ら進んで手放したのです。よく考えれば、というか、考えなくとも、長子の権利とは煮物一杯と引き換えにできるようなものではありません。日頃から気にも留めず、よく考えてもいないから弟ヤコブの提案にとびついてしまった。エサウはこの時、神の選びを拒絶したのです。せめて財産だけはエサウのものになるはずだったのに、その恵みを見過ごしてしまった。イサクの長男として命を与えられたという神の特別な恵みを、エサウは拒絶したのです。

エサウが気づいていたかどうかは不明ですが、この事件が大きな曲がり角になってエサウは神の救いからとことん離れていってしまいます。結果、エドム人はイスラエルと対立するばかりでなく、イスラエルに隷属するはめになってしまいます。その始まりは、エサウが長子の権利を軽んじた。この日の出来事がきっかけだったと言って間違いありません。

一方弟のヤコブは、生まれる前から神に選ばれているのだからとんとん拍子に成功した人生を歩んだのかというとそうでもありません。弟のヤコブもまた、兄のエサウと同じように神に逆らい、神の選びを拒絶します。ヤコブはおとなしくその時を待っていれば神の祝福が手に入るはずであったのに、母親のリベカにそそのかされて父イサクと兄エサウをだまします。祝福を手に入れるまでの時間を、ヤコブは無理やり縮めようとするのです。その結果兄とは対立し、故郷にはいられなくなって見知らぬ土地へと旅立つことになります。20年近い放浪の時を過ごします。ヤコブは従順に神の選びを受け入れたわけではなく、兄のエサウと同じように神の選びをないがしろにして、自分と兄エサウの人生を、いや家族を滅茶苦茶にして、困難続きの人生を歩んで行くのです。

聖書はアブラハムから始まった神の祝福がどのように継承されていったか、弟のヤコブにどのような神の介入があったか、ということを軸にして兄弟の物語は進みます。ですから本日の場面、兄のエサウが長子の権利を軽んじたという話の次に弟のヤコブが祝福を奪ってしまうと、この先にはエサウの話はほとんど出てきません。となるとやはり、神さまは弟のヤコブに肩入れをしている、エサウからは何もかも取り上げて、ヤコブだけに多くを与えているように思えてなりません。果たしてそうなのでしょうか。弟のヤコブは神の祝福を受け継いだがゆえに兄弟の争いをも引き受け、故郷にいられなくなります。やりたくない仕事をして、愛するラケルと結婚したいがためにラケルの姉と無理やり結婚させられてしまいます。仕事では何度も騙されて、愛しあっていたラケルとも子どものことをめぐってその関係がゆがみ始めます。神の祝福を手に入れたはずなのに、まるでそれが呪いであるかのようにヤコブを苦しめます。

一方兄のエサウはどうか。気の向くままに好きな女性を妻にして、両親の近くで悠々と暮らしました。20年後のエサウとヤコブの再会の場面では、400人ものお供を連れて弟ヤコブの前に姿をあらわした、とあります。おそらくエサウは生活には困らなかったでしょう。好きなことをして、気ままに生きたのです。この世的な価値観で見れば、ヤコブのように自由のない人生ではなく、エサウのほうがよっぽど自由で楽しい人生を送ったに違いありません。神の祝福というただ一点を除けば、エサウは幸せに生きたのです。

エサウの人生は、私たち現代人の生活そのものです。見えないもの、信仰に重きを置くのではなくて、見えるもの、簡単に手に入るものを手に入れることに重きを置いています。弟のヤコブのように神の祝福にこだわって、執念深く追い求めて、神にすがって生きるのではなくて、自分の快楽を求めて生きる、簡単に手に入るものに満たされて生きる私たちの姿をエサウの生涯から教えられます。食べることや気持ちのよいことに親しく、神のことには疎いエサウの息子たち、エサウの娘たちのために、イエス・キリストは地上の隅々をお訪ねになりました。パンではなく神の言葉を求めて生きなさいと、一言一言噛み砕くように教えてくださいました。そして神の祝福を拒絶して、神から打ち捨てられた状態を引き起こしたのはこの罪深い私であるのに、イエス・キリストご自身がその罪を引き受け、ご自身が祝福からもれた呪われた者となってくださいました。

はじめのところで、これは兄弟げんかの物語だと申し上げました。しかしお気づきだとは思いますが、これは兄弟げんかではありません。はじめから神の手のうちにあるのです。家庭内のいさかいではなくて、もっと壮大な物語です。はじまりはイサクとリベカの子どもをめぐる20年の祈りでした。神さまがその祈りに応えます。双子の命が宿り、その双子が対立をするのです。何十年かけて、神さまはこの舞台を整えたのです。ですから兄弟げんかと言うわけにはいきません。強いていうならば神の祝福にこだわり続けたがゆえにイスラエルにキリストの救いをもたらした弟のヤコブと、正規のルートから外れてしまったがゆえにイエス・キリストに見出される兄のエサウの物語。兄のエサウにも弟のヤコブにも、どちらにも違ったルートで、しかし同じ1つの救いであるイエス・キリストへの道が指し示されているのがこの兄弟の物語です。

この兄弟の物語を読む時に、イエスさまのこのお言葉が響いてきます。「私は失われたものを探して、救うためにきたのである。」絶望には希望が、暗闇には光が与えられます。一度は神の前から姿を隠し、孤独の中で佇んでいるのだとしても、私たちはイエスさまにみつけていただくことができるのです。イエスさまが見つけることができない人など、誰一人としていないのです。イエスさまがあなたを見つけるために、どれほど苦しく、困難な旅をしておられるか。そして、あなたを見出した時に、天の上でどれほどの喜びが満たされていることか。その時、華々しくファンファーレが鳴り響いて、神の使いたちが喜びの歌声をあげるのです。そのことを私たちは日曜日ごとに確認せずにはいられないし、ご一緒に分かち合わずにはいられないのです。「私は失われたものを探して、救うためにきたのである。」このみ言葉はすでに成就しているし、そして今この時もまた、現実として起きている。私たちはイエス・キリストに見出され、見出され続けて、そして天の国へと招かれるのです。

<祈り>ご在天の父なる神さま。エサウとヤコブの物語に耳を傾けました。私たちは人とうまくやっていくことができません。国と国は争い、夫婦も親子も兄弟も傷つけあうのです。しかしだからこそ、その中にあなたの恵みはいつも示されています。罪深い私たちのことを心にかけて、訪ねてくださるのです。地上のことにではなくあなたのことに、目を注ぐことができますように。イエスさまに見出される喜びを心から受け入れて、分かち合うことができますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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