1月7日の礼拝の内容です。

礼拝

1月7日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.280.403.26です。

礼拝説教       使徒7:23~29「失敗を乗り越える」    2024.1.7

 2024年、新しい年になりまして、最初の日曜日を迎えました。新しい年がどのような時となるのであろうかと思い巡らしていた時に、1月1日の午後4時過ぎに大きな地震が北陸地方を襲いました。後は皆様、ご存じだと思います。大きな被害が出ています。今は、少しでも被害が少なることを神に祈ることしかできません。この度の震災で傷ついた方々の癒しと復興を神に祈ります。

 日曜日の説教では、使徒言行録を読んでいます。イエス様の復活後に、聖霊がイエス様の弟子たちに下り、大いなる力をいただいて、イエス・キリストの福音を語っていきます。教会が誕生し、大いなる発展をしていきます。ユダヤ人の指導者からの攻撃や迫害を受けながらも、使徒たちは、福音を伝えることを止めませんでした。この使徒言行録7章は、ステファノの説教と殉教です。ユダヤ人の指導者たちから捕らえられて、ユダヤ人の最高法院に連行されて、審判を受けています。訴えられたステファノは、弁明するために、神の救いの歩みとユダヤ人の罪を語っています。この使徒7章のステファノの説教は、とても長い内容となっています。

 ステファノはその説教を通して、神のユダヤ人の導きを、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと語っていきます。今日の聖書の箇所に内容は、40歳になったモーセの行動の話です。イスラエルの人々は世界的な飢饉があったために、ヨセフの時代に、エジプトに逃れて生活をしていました。長い間、奴隷としてエジプトで苦しんでいました。その苦しみを知った神は、モーセを送るのです。説教は、モーセの誕生からスタートしていきます。ヨセフの時代から、時は流れて、エジプトでは新しい王朝、新しい王が誕生したのです。エジプトでイスラエルの人々は数を増やしていきました。驚異的なスピードで人口が増えていきました。イスラエルの人々の急激な人口の増加は、エジプト王に新しい脅威となりました。このまま、イスラエルの人々の数が増えていけば、自分たちの国を奪われてしまうと考えて、イスラエルの人々の人口増加を少なくするために、エジプト王は、人々に強制労働を課したのです。

 そのようなイスラエルの人々の対する強制労働では、人口の増加を減らすことはできませんでした。逆に、数が増えていったのです。そこで、エジプト王は厳しい命令を出しました。それはイスラエルの人々の内で子どもが生まれた場合、男の子はナイル川に流し、女の子なら生かしておくということです。そのような状況の中でモーセは生まれて来たのです。両親は3ケ月の間は手元に置きましたが、その後、葦の籠に入れてナイル川の葦の茂みに置きました。そのままでは流されて、モーセは死んでしまうところでした。しかし、その所に、エジプト王女が水浴びに来ていて、モーセを発見し、自分の子として育てていくのです。モーセはイスラエル人の子として生まれ、エジプト王女の子として成長していくのです。

 モーセにとって、エジプト人の王女に助けられたことは、いったいどうだったのでしょう。ある意味で苦しみを背負って生きることになります。モーセの中にはイスラエル人の血が流れているのですが、エジプト人として成長していくのです。それもエジプト王家の子として生きていくのです。今日の聖書の箇所は、モーセが40才になった時のことが書かれてあります。

出エジプト記2:11~12

モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。

 ここでは、モーセが成人した時となっています。モーセは同胞であるイスラエルの人々のところに行くのです。当時、イスラエルの人々はエジプトで奴隷として厳しい労働の中にありました。強制労働です。レンガつくりや農作業などです。そこで、モーセはイスラエルの人々が重労働をしていることを目撃します。モーセは生まれて初めて、イスラエルの人々が重労働している現場に行ったのでしょうか。ここで大切なことは、モーセがいつ、自分がイスラエル人と分かったかということです。誰かによって知らされたと思いますが、自分の生い立ちを知った時には大きなシヨックを受けたと思います。そのショックを持ったまま現場に行ったのでしょうか。そこでは1人のエジプト人が、1人のイスラエル人を鞭で打っている場面を目撃してしまったのです。ここでは、モーセは辺りを見回し、誰もいないことを確かめて、エジプト人を打ち殺して、その死体を砂に埋めてしまいます。誰にも知られないように注意していることが分かります。ところが、使徒言行録では、次のようになっています。

使徒7:23~25

四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。

 ここでは、40歳になったモーセは、イスラエルの人々をその苦しみから解放することをすでに目的としていたと書いています。自分の兄弟であるイスラエルの人々を助けようと思い立つのです。そこで、1人のイスラエル人が虐待されているのを見て助けるために、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったとなっています。すでに、モーセは自分の手でイスラエルの人々を解放することを決めていて、神がイスラエルの人々を救おうとしていることを、仲間であるイスラエルの人々が理解してくれると思っていました。しかし、実際には理解してくれませんでしたと書いています。次の日に、モーセは再び、イスラエルの人々の場所に行きます。そこで、モーセは自分のしたことが多くの人々に知られていることに気づくのです。

出エジプト記2:13~15

翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

 出エジプト記には、モーセがイスラエルの人々のところに行くと、イスラエル人同士がけんかをしているのを目撃し、止めようとします。悪い方をたしなめると「お前は、あのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返しています。多くの人々に、昨日、自分がしたことを知られてしまっています。どうして、ばれてしまったのでしょうか。モーセは辺りを見渡して誰もいないことを確認して行動したのです。分かるはずはないのです。でも、1人の目撃者がいました。それは、モーセが助けたイスラエル人です。彼が仲間にそのエジプト王子であるモーセのエジプト人殺害を広めたのです。そのことがエジプト王に知られることになり、王はモーセを殺そうと探すのです。そのために、モーセはエジプトにいることはできなくなり、遠くミディアン地方の逃げて行くことになってしまいました。

使徒7:26~29

次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。

 ここでモーセは、仲間であるイスラエル人同士がけんかをしているのを見て、仲直りさせようとして、痛めつけていた男に忠告すると、突き飛ばされて、モーセの昨日の行動を知らされて、エジプトから逃げて行くことになってしまいました。40歳のモーセは、出エジプトでの働きはまだだったのです。その時ではなかったのです。80歳になった時に、モーセはミディアンの地にいました。神はモーセをエジプトへ導いていくのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3:10)40歳の時のモーセは、イスラエルの人々を助けようと思い立ちました。しかし、その時ではなかったのです。80歳のモーセ、イスラエルの人々を助ける時が来ました。神がそれを求めているからです。でも、モーセは神の命令には消極的でした。いや行きたくなかったのです。でも最後は神に従ってエジプトに行くことになりました。思えば、モーセにとって40歳の時の失敗は必要だったのでしょう。神に従う者として、失敗の経験は必要だったと思います。それは神の力に頼ることを学ぶためだったのです。

 私たちも、このモーセの失敗から学ぶことができます。自分の力ではなく、神の力によって、神の御心を行っていくということです。私たちはこのことを人生において繰り返し学んでいくことになるのです。

祈り 神よ。新しい年の最初の日曜日に、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたに従っていくこと、そのことを心から喜び、神に従っていくことができますように導いてください。北陸で起った震災に際して、どうかあなたの守りをお願いします。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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