7月24日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教      マタイ25:31~46「最も小さい者への奉仕」   2022.7.24

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただいて、この1週間の歩みが、よりよいものとなりますように祈ります。

 イエス様はエルサレムに入られました。まもなく十字架の時は近づいています。イエス様はマタイ24章~25章にかけて、この世の終りについて話しています。今日の聖書の個所は、その最後の部分です。「すべての民族を裁く」と、新共同訳聖書は書いています。とても怖いことが書いているように感じます。イエス様は2000年前に来てくださいました。私たちの罪を赦すために十字架にかかるためでした。そして、イエス様は再び、私たちのところに来てくださるのです。この世の終りと神による新しい天の国に、私たちを招くためにです。

 イエス様が再び、私たちのところに来てくださる。この時に、神による最後の審判というのがあります。イエス様はそのことをいっています。人の子であるイエス様は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るのです。そして、栄光の座にお着きになるといわれます。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、国民をより分けられます。羊を右に、山羊を左に分けます。右に分けられた人々は、神によって祝福された人です。そして、天地創造の時から彼らのために用意されていた国を受け継ぐことになるといいます。永遠の命に預かるのです。左に分けられた人々は、神によって呪われた人ということになります。神から離れ去り、悪魔とその手下のために用意されている永遠の火に入ることになるといいます。永遠の罰に預かることになります。

 この聖書の個所でいわれていることは、右と左に分けられる基準です。それは、身近な者への奉仕をしたかどうかです。飢えている人に食べさせたか、のどが渇いている人に飲ませたか、旅をしている人に宿を貸したか、裸の人に服を着せたか、病気の人を見舞ったか、牢にいる人を訪ねたか、というものです。特別なことをしたわけではありません。病気を治したか、牢から出るようにしたか、ではないのです。病気の時に見舞いにいったか、牢にいる時に訪ねたかという小さな働きをしたかどうかが、なのです。そして、そのような行為は、イエス様ご自身にしたことなのだと、イエス様ご自身が、ここでいっています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とイエス様は答えています。そして、不思議なことは、彼ら自身が、その小さな者への行為を知らないのです。この聖書の個所だけを読んでいると、最後の審判の時に、救われる、裁かれることの基準が、このような最も小さな者への奉仕をしたかどうかなのです。そして、その行為を、本人はしたにも関わらず覚えていないということです。

 キリスト教神学の中で「信仰と行為」という課題があります。私たちが、神によって救われるためには、どのようにイエス・キリストを信じているかです。それは、とても大切な内容です。伝道者パウロは、聖書の中で次のようにいっています。

ローマ3:22~24

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 最後の審判の時に、救いの基準として、最も小さい者への奉仕をしたかどうかということになっていますが、それは違います。飢えている人に食べさせた。のどが渇いている人に飲ませた。旅をしている人に宿を貸した。裸の人に着せた。病気の人を見舞った。牢にいる人を訪ねた。そうした人が救いの対象となっているのではありません。イエス・キリストの十字架を信じているかどうかです。イエス・キリストを信じているかどうかが問われています。イエス・キリストへの信仰ということは、次のような視点も必要になってきます。

ヤコブ2:14~17

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 神への信仰があるというときに、行為を伴っているというのです。ここに書いているように、今日、食べることができない人に、ただ、食べて満足しなさいといっているだけでは、何もなりません。実際に、食事を与えて、食べて満足しなさいということができるのです。口でいっているだけでは話にならないということです。実際に、行動によって、判断することができます。神を信じることによって、その結果としての行いのことをいっています。

 イエス様は、今日の聖書の個所で、最も小さな者への奉仕は、イエス様ご自身にしたことなのだといっています。私たちが、イエス様に対して奉仕するということです。実は、この逆が、ここでいわれているのです。イエス様ご自身が、この最も小さい者に対して、どのように関わってこられたかです。1つの例を見てみたいと思います。マタイ8章に出てくる、指導者の娘の癒しと12年間、出血が続いている女性の癒しの話です。ある指導者の娘が死んで悲しんでいる、それをイエス様が癒し、娘が生き返り、指導者は喜んでいます。長く病気で苦しんでいる女性、その人にやさしく声をかけて癒すのです。この女性は苦しかった人生をやり直すことができるようになりました。他にもたくさんのことがありました。イエス様の働きを見ていると、このように苦しんでいる人、病の人、差別されている人、そのような最も小さい者と言われている人の側にいて、助けていったのです。

 そして、まもなく十字架におつきになられます。どうしてでしょうか。それは、私たちのすべての罪を背負って、十字架についてくださるのです。このイエス様の十字架の死によって、私たちの罪のすべてが赦されて、天の国に入ることができるようにしてくださったのです。私たちは人生の中で、いろいろな苦難の中にありました。一人一人違う人生があり、様々な苦難や悲しみがありました。そのような人生の苦しみの中で、イエス様と出会い、十字架のこと、罪の赦しのこと、神の愛のことを知りました。考えてみれば、私たち自身が、最も小さい者だったのです。いや、今も最も小さい者なのです。その最も小さい者である私たち一人一人に、イエス様は一緒に歩んでくださり、私たちと一緒に苦しみ、悲しみ、悩み、涙し、そして、十字架について、死んでくださったのです。私の罪のために、その大切な命を、十字架で捨ててくださいました。それは、私の罪の赦しのためであり、天の国に入ることができるようにしてくださり、神と共にあり、永遠の命を与えてくださったのです。

 イエス様は、私たちが飢えていた時に、食べさせてくださいました。私たちがのどを渇いていた時に、飲ませてくださいました。私たちが旅をしていた時に、宿を貸してくださいました。私たちが裸だった時に、服を着せてくださいました。私たちが病気だった時に、病室を訪ねて来てくださいました。私たちが牢にいたときに、牢に訪ねて来てくださいました。そのようなイエス様に、私たちは何と答えるのでしょうか。十字架で命を捨ててくださったイエス様に、私たちは何と答えるのでしょうか。ただただ感謝しかありません。「イエス様、ありがとうございます。」というしかできないのです。そのイエス様が、私たちに「互いに愛し合いなさい」といわれました。そのイエス様の言葉に答えていきたいと思います。身近な人を愛することができるようになりたいと心から願います。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたのみ言葉も聞くことができました。あなたの愛のメッセージをしっかりと受け止めることができ、それに応えることができるように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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