1月2日の礼拝の内容です。

silhouette photography of group of people jumping during golden time 礼拝
Photo by Belle Co on Pexels.com

新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

讃美歌は、394(1)566(1)です。

礼拝説教       マタイ21:23~27「天からか人からか」    2022.1.2

 2022年に入りました。今日は、最初の日曜日を迎えました。日曜日ごとに、礼拝を守ることができますことを心から感謝します。この新しい2022年も、神に守られて、日曜日の礼拝を守ることができますようにと願います。また、2021年の歩みも守られたことを感謝するのです。

 マタイによる福音書を読んでいます。イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。イエス様は神殿の境内に入って、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。その時に、イエス様は「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきなのに、それをあなたがたは強盗の巣にしている」といわれるのです。この時には過越しの祭りを祝うために、各地から多くのイスラエルの人々がエルサレムに来ていました。そこでは不正が行われていたのです。神殿税を納めるために、ローマのお金からユダヤのお金に両替する必要がありました。この時に多くの手数料を取られるのです。また、ささげものの鳩を買う時に、高額なお金を必要だったのです。その不正を正すために、イエス様は行動されたのです。

 エルサレムにある神殿は、イスラエルの人々の信仰の中心でした。その神殿を管理、運営していた人々が祭司長たちでした。祭司長たちは、神殿のことの責任も持っていて、その権威を与えられていたのです。イエス様のしたことを正しいことですが、彼らにしてみれば、勝手な行為とみられていました。彼らの許可を得ることなく、イエス様は勝手に行動されたということになります。

 イエス様が神殿の境内に入って、教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問うてきます。祭司長たちは、エルサレムの神殿の運営と管理をしていて、神殿の権威を持っています。その権威を傷つけられたので、ここでイエス様を問いただそうとしています。イエス様は答えをはっきりと持っていました。神から遣わされた神の子としての権威だということはできたはずです。でも、そうしませんでした。それで、したことを問い返すということでした。イエス様は「では、わたしも1つ尋ねる。それに答えるのなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちにいおう。ヨハネの洗礼はどこからだったものだったのか。天からのものか、それとも、人からのものか」と、聞かれます。

 洗礼者ヨハネは、イエス様の前に活躍された預言者です。ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始めました。そのヨハネの声を聞いた多くのイスラエルの人々がユダヤ全土からやって来て、人々はヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けました。そしてヘロデ王の罪を告げて、牢に閉じ込められ、首を切られて殺されてしまったのです。権力に従うことをせず、神の意志を忠実に告げて殺されたことで、人々は、ヨハネを預言者として信じていました。

 祭司長たちや民の長老たちは、論じ合いました。「もし、天からのものだと言えば、ではなぜヨハネを信じなかったというだろう。逆に人からのものだと言えば、群衆が怖い、皆がヨハネを預言者と思っているから」と。そして、彼らの結論として「分からない」と、イエス様に答えるのです。

 エルサレムの神殿の責任を持っている彼らは、イエス様の神殿の境内での行為を受けて、はっきりと否定するために、やって来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問いました。祭司長と民の長老たちは、自分たちこそ、神殿の権威を持っていると思っていましたし、周りの人々もそのように思っていました。それが、イエス様からの問いかけに、自分たち自身の本当の姿をみることになってしまいます。イエス様は、ヨハネの洗礼を出すことによって、祭司長と民の長老たちが、いったい何の権威で立っているのかを気づかせるのです。

 彼らの話し合いの中で、「天からのものだ」といえば、「ではなぜ、ヨハネを信じなかったのか」と、人々からいわれる。「人からのもの」といえば、群衆が怖い。皆、ヨハネを預言者と思っているからと。ここで彼らの行動のもとは、神の目ではなく、人の目です。人々の目を気にして、行動していることがよく分かります。そのことで、「分からない」と答えるしかなかったのです。祭司長たちは、本来ならば、神を信じ、仕える者です。ですから、一番大切なことは、神の御心は何かということに心を配る必要があったはずです。しかし、実際には、人の目を気にして行動していました。それが、イエス様の問いかけによって、明らかにされたのです。

 話は変りますが、ヨハネ8:1~11の姦通の現場で捕まった女性の出来事を思い出しました。神殿の境内のことで起ったことです。イエス様が座って人々に教えていた時でした。律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来て、真ん中に立たせて、イエス様に問うのです。「先生、この女性は姦通をしている時に捕まりました。こういう者は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」と。これは罠であり、イエス様を試して、訴える口実を得るためです。彼らのしつこい問いに対して、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女性に石を投げなさい」と答えられました。それを聞いた者は1人ずつ、その場から離れていったのです。

 この時も、訴える者は、自分たちのことを見ていません。自分たちは正しい者だと考えていました。自分たちは、安全な場所に立っていて、行動しているのです。それが、イエス様の問いによって、自分たちはいったい何者かと問われたのです。今日の聖書の箇所も、同じです。祭司長や民の長老たちがやって来て、イエス様に「いったい、何の権威でこのようなことをするのか。だれがその権威でこのようなことをしているのか」と問うています。祭司長や民の長老たちも、自分たちは神殿の権威を持っている。そのように考えていたのが、イエス様の問いかけで、自分たちの本当の姿をみるようになったのです。

 この内容をみていると、私たち自身が問われていることに気づきます。私たちは人との関係の中で生きています。人間関係の中で生き、そして生活しています。いろいろなことが起ってきます。物事に熱心になりすぎると、周りのことも自分のことも見えにくくなります。そして、自分は完全で間違いのない存在だと勝手に思い込んでしまいます。自分はいったい何者か、そのように突きつけられてよく自分のことをみると、いかに自分のことが見えていないことに気づくのです。私たち自身はいったい何者でしょうか。本当の自分とはいったいどのような者なのでしょうか。まず、本当の自分自身を見つめることをしていきたいと思います。

 やがて、イエス様は十字架の道を進まれます。祭司長や民の長老たちに逮捕され、ローマに引き渡されて、十字架刑が決まります。裸にされて、鞭で打たれます。激しく打たれ、肉が裂かれ、骨が砕かれ、血が飛んでいきます。そして、瀕死の状態で十字架を担ぎ、刑場まで歩いていきます。途中で倒れ、他の人に十字架を委ね、1人歩いていきます。刑場につき、十字架につけられます。手を釘で打たれます。そして、十字架の上で苦しみ悶えます。その時に、神に祈りました。「父よ、彼らをゆるしてください。自分で何をしているのか知らないのです。」と。この十字架の上の祈りは、まさしく、自分を十字架につけた祭司長や民の長老たち、律法学者たち、そして、私たちのための祈りです。このゆるしの祈りによって、私たちは立っていくことができる者に変えられたのです。この2022年も、イエス様の十字架を仰いで歩んでいきたいと願います。

祈り 神よ。2021年の歩みを守ってくださり、ありがとうございました。そして、新しい2022年の歩みも、あなたの守りと祝福の中で歩んで行くことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

コメント