4月3日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、300(1) 311(1)です。2022年度が始まりました。4月17日がイースターです。

礼拝説教      マタイ23:23~28「人の心をみる神」    2022.4.3

 2022年度が始まりました。4月の最初の日曜日を迎えました。周りを見渡しますと、桜が満開に咲いています。新しく始まっていくという期待感と緊張感があります。去年の4月から始まった教会堂の増改築工事もまもなく終えようとしています。このCS館での礼拝を3回に分けて守って来ました。それもまもなく終えようとしています。新しい教会堂はどうだろうと期待感があります。2022年度の教会の歩みはどうなっていくのだろうと楽しみです。

 2022年度の年間聖句は詩編119編105節にしました。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」です。私たちの信仰者の歩みの基本は、聖書の御言葉によって、支えられています。当たり前にことですが、いつも基本に立ち戻っていきたいと思います。私たちの人生の歩み、いろいろなことが起ってきます。突然な事が起ります。まったく予想していなかったことが起ります。突然の試練の中で、どう前に進んで行けばいいのか、分からない時もあります。そのような時に、人生の道しるべになるのが、神の言葉である聖書です。この神の御言葉によって、私たちは信仰の歩みを続けていくのです。

ヨハネ3:16

神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ルカ23:34

そのとき、イエスはいわれた。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」

 神の御言葉が私たちの信仰者の道しるべになるといいました。その中心になるのが、イエス・キリストの十字架です。聖書の内容はとてもたくさんの内容を含まれており、すべてを把握することは困難なことです。それで、聖書の中心的なメッセージをしっかりと、自分の心の中に置くことが大切になってきます。それが、イエス・キリストの十字架です。どのような聖書の箇所でも、このイエス・キリストの十字架に照らして、読んでいくのです。そうすると、間違うことはありません。

 イエス様は、エルサレムに入られました。まもなく、十字架の時は近づいています。いよいよイエス・キリストの働きが完成する時が近づいているということです。その前に、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々と激しい論争を行いました。また、今日の聖書の箇所で、厳しい批判を、この律法学者やファリサイ派の人々に向けています。私たちのイエス様のイメージは、やさしい羊飼いだと思います。ここではまったく違います。ここまで批判するのか、ここまで言うかという内容です。

 律法学者の登場ですが、イスラエルの人々の中で厳しい歴史の歩みがありました。神が与えられた約束の地に住んでいたイスラエルの人々、バビロニアによって、滅ぼされてしまいました。エルサレムの町は焼かれ、神殿は破壊されました。多くの人々がバビロニアの首都バビロンに奴隷として連れて行かれました。これがバビロン捕囚といわれるものです。神の裁きにあったと人々は感じていたのです。神は私たちと見捨てられた。それくらい厳しい出来事でした。どうして、自分たちはこのような悲惨な目にあわなければならなかったのだろうと考えました。その理由が、自分たちは神に従っていなかった。神の教えである律法を守っていなかったからだと結論づけたのです。神のもとに立ち返ろう。神の教えを守り実行していこうとなったのです。その流れで、律法学者が登場して来ました。

 国が滅ぼされ、生き残った人々が敵の都に奴隷として連れて行かれるという厳しい出来事があって、律法学者が出て来たのです。自分たちは、神の救いの中に入ろうとして、律法学者があったのです。律法学者は、神の教えである律法をまとめ、教え、実践して行きました。その行動の中心が神の祝福の中に戻ろうということでした。熱心に取り組んでいきました。神の救いの中にあろうとして、律法を守るために、律法の内容を細かく作り、たくさんの規則を作って行きました。イエス様の時代に、ファリサイ派の人々が登場して来ました。彼らは、律法を守るために、人生のすべてをかけていたのです。

 イエス様と対立している律法学者とファリサイ派の人々、彼らこそ、自分たちは、神に最も近く、救いの中にいると考えられていた人々でした。その彼らの役割は、神の子イエス・キリストを十字架につけるという大切な役割をすることになるのです。本当に悲しいことではありませんか。神のために奉仕している。神に従っている。自分の人生のすべてを神にかけている。自分たちは、神の救いの中にあると信じきっていたのに、本当は、そうではなかった。神の裁きの中ある。神の救いの外にあるということ知ったとしたら、彼らの人生は何だったのでしょうか。繰り返しいいますが、これほど悲しいことはないと思います。

 神のために生きようとしていたことが、実際には、神の子を十字架につける役割をすることになった。マタイによる福音書の中で、イエス様が律法学者やファリサイ派の人々を、これほど厳しく語っていることは、この悲しさにあるのです。言い換えれば、イエス様の彼らに対する愛から来ていることになります。今日の聖書の箇所から言えば、あなたたち偽善者は不幸だ。ここでは10分の1のささげものについていっています。これは、イスラエルの人々の中でレビ人を支えるためでした。そして、このささげものは、自分たちが与えられているすべての物が実は、神から与えられている物だと確認することでもありました。はっか、いのんど、ういきょうの10分の1はささげるが、律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実はないがしろにしていると、イエス様はいうのです。律法の本質である神の愛、神の義が見失われているというのです。

 また、彼らは、杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだと。イエス様の時代、エルサレムの地域の人々は、自分たちの墓を白く塗る習慣があったそうです。それは、巡礼者が墓に触れて汚れてしまい、祭りに参加できなくなることを防ぐためだったといわれています。死者や遺体に触れると汚れるとあるからです。白く塗った墓、外側は美しく見えますが、内側では死者や骨のあらゆる汚れで満ちているからです。

神からの救いのことですが、律法学者やファイサイ派の人々の大きな間違いは、自分たちの力で神の救いを得ようとしていることです。神の救いの中にいたい。それはとても大切なことです。神と共に歩みたい。神のために生きたい。神に従って、自分の生涯を歩みたいと思い、努力することは大切なことです。神からの救いは、自分から得るものではなくて、神から与えられるものなのです。それは神の力である聖霊の働きがなければ分からないことです。

 私は今まで、律法学者やファリサイ派の人々の罪について語ってきました。でも、このことは彼らだけの問題ではないのです。私たちの問題でもあるのです。私たちは、神を信じていると思っています。イエス・キリストを信じていると思っています。その信仰の内容が、実は、自分の力だけで得ていると思い込んでいるのかもしれなせん。神からの救いは、神から一方的に私たち1人1人に与えられているものです。律法学者やファリサイ派の人々が、イエス・キリストを十字架につけてしまいました。その中に、私たちもいるのです。私たち自身の罪が、イエス・キリストを十字架につけてしまったのです。私たちが、神の子イエス・キリストを十字架につけたのです。イエス様の十字架の死の責任は、私たち1人1人にあるのです。とても大きな罪です。しかし、その罪が、私たちの罪の赦しにつながっていくのです。それが神の御心でした。イエス様は十字架の上で、私たちの罪のために祈っていてくださっています。

ルカ23:34

そのとき、イエスはいわれた。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」

 このイエス様お祈りによって、私たちの罪の赦し、救いが与えられているのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができますことを心から感謝します。あなたの救いを、あなたの愛を、神からも恵みとして、私たち1人1人が心から感謝して受け取ることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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