7月31日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、58(1)528(1)29です。先週の日曜日は無事に献堂式を行うことができました。

礼拝説教   創世記37:18~28「悲劇に秘める光」(小椋実央牧師) 2022.7.31

7月最後の主日が与えられました。過ぐる週には無事に、と言ったらいいのでしょうか、どうにか献堂式を終えることができて、この会堂建築の大きな一区切りをつけることができました。会堂建築が具体的に始まる前から、思いを寄せて祈っていてくださった方々、同じ地区内の教会として温かく見守ってくださった方々、またハンドベルを演奏してくださった高校生たち、何よりも教会員のおひとりおひとりがここに集まって、一言で言うと熱い会だったな、と。

残念ながら私はこの場所にいることがかなわずに自宅から画面越しにその様子を拝見していたのですが、みなさんの熱気が画面を通して伝わってくるようでありました。何よりも、この会堂建築を成し遂げて、益々この瀬戸の地に福音を語り続けるのだという神さまのご意志が、熱く燃え続けているようでありました。神さまの熱い情熱を、私たち1人1人も心のうちに灯しながら、み言葉に養われ、み言葉を携えて生きる、そのような営みをまた今日からこつこつと続けて参りたいと思います。

すでに恒例になった、と言ってもよいのかもしれませんが、この夏、教会学校ではヨセフ物語の人形劇に取り組んでいます。思い返せば2年前、ちょうどコロナ禍にあって、教会学校に来ることのできない子供たちと何かできないだろうか。何か聖書のメッセージを届けることはできないだろうか。それがきっかけとなって、人形劇をYouTubeで配信するという取り組みが始まりました。ちょうど今日の説教題は「悲劇に秘める光」と題しましたけれども、この人形劇もまた、コロナ禍という悲劇の中にあって、しかしだからこそ生まれた光のような存在かもしれません。

このヨセフ物語ですけれども、簡単にあらすじを申し上げますと、ヤコブの12人の息子たちの物語です。この12人は仲が悪くて、ヨセフは遠いエジプトに売られてしまうのですけれども、ヨセフがエジプトにいてくれたがゆえにヤコブ一家は飢饉から命を守られて、エジプトへと移住をする。そして、後にイスラエルの人々にとっては信仰のルーツとも言うべきエジプト脱出の出来事へと結びついていく。旧約聖書の要と言ってもいいぐらい重要で、かつ壮大なストーリーなのです。この壮大なストーリーを、いかに聖書の大切なメッセージを削ることなく、短く15分以内にまとめるのか。これが人形劇を始めるにあたって、最初の難関でした。ヨセフ物語は長いだけでなくて、魅力的な場面がたくさんあります。ヨセフが兄たちに捕えられてしまう場面、牢屋に入れられてしまう場面、夢解きの場面、兄たちと和解をする場面。どれも捨てがたくて、かといって全部を扱うわけにはいかない。本日も説教箇所を決める時に、ヨセフ物語の一体どの部分にするのか、悩みました。やはりこの部分、ヨセフが捕えられて売られていく場面が一番中心になるかなぁと思って選びましたし、人形劇でもこの場面は丁寧に描いています。

どうにかこうにか台本を15分に縮めました。今、手元にある台本の表紙にはバージョン5.2とありますので、少なくとも5回は読み合わせをして書き直してもらったと思います。幸いなことに、教会学校の教師の中には才能ある脚本家が複数名おりますので、今回は初めてコンペを行いまして、脚本を読み比べて選ぶ、という贅沢な経験もさせていただきました。この15分に縮めていく作業と同時進行で、誰を舞台にあげるのか、ということも考えなければなりませんでした。12人兄弟全員を出すことができればいいのですが、さすがに多すぎて、誰が誰だか分からなくなります。兄弟のうち、誰がどんな発言をしているのか。台本を作っていく過程で、聖書を勉強せざるをえなくなりました。教会学校の教師たちはこのように聖書と向き合いながら、そして日々自分たちもみ言葉に養われていきます。今回も前回に続いてカピタニオの高校生たちの手を借りて、セリフを吹き込みました。このセリフを録音したものを流しながら、人形を動かしていきます。この方法でやりますと、かなり少ない人数で、最低4人ぐらいいれば人形を動かせるということが分かってきました。人形劇をはじめた頃はそういうことが分からずに、全員がそろわないと練習ができない、だからなかなか練習ができないと思い込んでいたのですが、人形劇の回数を重ねるうちに、効率のよい方法を見出すことができました。ヨセフ物語の人形1つとっても、背景にしても、現在の教会学校の先生方の力が存分に注ぎ込まれていますので、また是非みなさんにもお披露目する機会があればいいなぁと思っています。

ヤコブの11番目の息子、夢解きという類まれな賜物を与えられたヨセフの物語です。始めは夢解きという才能があるがゆえに兄弟にねたまれ、しかしエジプトでは夢解きを武器にして大臣の座を手にします。ヤコブの11番目の息子と申し上げましたが、実はヤコブには2人の妻がおりました。レアとラケル、2人の姉妹です。ヤコブは妹のラケルのほうを愛していて、本当はラケルと結婚する予定でした。しかし姉妹の父親にだまされて、姉のレアと結婚することになってしまいます。一週間の婚礼の儀式を済ませた後に、改めて妹のラケルと結婚します。この妹のラケルにはなかなか子どもができずに、姉のレアと、レアとラケルのそれぞれの側目に次々とヤコブの息子が生まれました。そしてようやく11番目に愛するラケルのもとにヨセフが生まれたのです。ですから11番目と言いつつも、ヤコブにとってみれば愛する女性が初めて生んだ男の子です。いつの時代でも、どこのご家庭でも長男というのは別格だと思うのですが、まさしくヤコブにとってみれば目に入れてもいたくないほどのかわいがりようでした。そのことは、兄たちが羊を追って仕事をしている最中にも、ヨセフは仕事もせずに日本の着物のようなくるぶしまである洋服を着せられて過ごしていたのです。兄弟たちは憎しみのあまり、ヨセフとまともに話すこともできなかった、と聖書は記しています。

事件は起こるべくして起こった、と言ってもよいかもしれません。自宅から遠く離れた場所。父親の目も、近隣の人々の目も届かない場所。あれは事故だったのだ、ヨセフは獣に食われてしまったのだ、と言ってしまえば、弟のヨセフを亡き者にできるのではないか。父親の愛情を奪われて、追い詰められた兄たちがそう考えるのは自然なことだったのかもしれません。子どもたちにヨセフ物語を説明する時に、或いはヨセフ物語のあらすじを説明する時に、「ヨセフは兄弟たちに捕えられて、奴隷としてエジプトに売られたのだ。」と説明することが多いのですが、本日お読みした箇所を1節ずつ読んで参りますと、そう簡単な話ではなかったということが分かります。場面は兄たちが羊の群れの世話をしているところです。ヨセフはいつもどおり父の元で美しい晴着を着て過ごしていたのですが、父におつかいを頼まれて兄たちのもとへでかけていきます。

自分たちは働いているのに、そこに場違いなきらびやかな服装でヨセフが登場します。兄の1人が言います。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の1つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」それに対して長男であるルベンはこう言います。「命まで取るのはよそう。血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」

はじめ、兄弟たちは明確な殺意を持っています。殺してから穴に投げ込もう、と相談をしている。それに対して長男のルベンは穴に投げ入れるだけにしなさい、殺してはならないと言っている。兄弟たちは長男ルベンの意見に同意します。ヨセフを穴に投げ込んで、ヨセフを殺すということはしなかったのです。兄弟たちはこの後、食事をとりはじめます。ヨセフを穴に投げ込んでから、しばしの時間が経過していることがわかります。生意気なヨセフめ、ざまあみろと思っている者もいれば、勢いでこんなことをしてしまったけどどうしよう、と不安になっている者もいたかもしれません。いやいや、この程度じゃ気が済まないぞ、もっとヨセフを痛めつけてやらないと、と思っていたかもしれません。口火を切ったのは上から4番目のユダです。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって肉親の弟だから。」ユダがこのように言うからには、さきほどのルベンの意見に全員が心から賛成はしていなかったのかもしれません。ヨセフを殺したい。しかし、殺したところで自分たちには何の特にもならないじゃないか。殺すぐらいならイシュマエル人に売ってしまえば、自分たちはヨセフを殺したことにはならないし、お金も手に入る。ヨセフを亡き者にしたいという自分たちの思いもとげられるじゃないか。ユダは全員を説得します。

ところがそうこうしているうちにまた別の人たちがやってきて、ヨセフを引き上げてイシュマエル人に売ってしまった。イシュマエル人はそんな事情があるとも知らずにヨセフを奴隷として買い、ミディアン人はよもやヨセフが兄弟たちに亡き者にされようとしていることも知らずに穴から引きあげてしまった。結果として兄弟たちはヨセフを売ることもできずに、気が付けば穴の中は空っぽだったわけです。少しずつボタンをかけ違えていった結果、ヨセフはミディアン人の手を借りてエジプトへ売られていくのです。兄弟たちがやったことというのは、ただ穴の中にヨセフを投げ込んだだけだったのです。

ヨセフはヤコブに愛されていたにもかかわらず、しかし愛されすぎたがゆえに兄弟の反感を買いました。兄弟から直接売られたわけではありませんが、しかし結果として奴隷という立場、物のように扱われ、たった銀貨20枚で売られていくのです。この後ヨセフが経験した苦労は、想像するに難しくありません。ポティファルの家で成功を収めたかのように思えましたが、ポティファルの妻に誘惑され、牢やに入れられてしまうという悲劇にみまわれます。ヨセフの生涯を語る時に、いくらでも悲劇的に、そしてそこからどのように這い上がったか、という成功物語として語ることはいくらでもできることです。けれどもそのどうしようもない人と人との破れ目の間に、絶え間なく射し込む光を見逃さないわけにはいきません。何故なら神さまはいつも道を備えておられるお方だからです。神さまは苦しみの時こそ近くにおられ、私たちが苦難の意味を知ることができるように導いておられるお方だからです。ヨセフは兄たちにねたまれますが、命まではとられませんでした。24節には「その穴は空で水はなかった」とあります。時折穴には水がたまっていることがあるそうです。もし違う穴に投げ込まれていたら、おぼれ死んでいたかもしれません。しかしヨセフは生きて才覚をあらわし、活躍の場を与えられます。兄たちの策略により、かえってヨセフは生かされ、またそのことによってヤコブ一家の命が救われることにもなるのです。

このことはヨセフの側からだけではなく、兄たちの側から見ても言えることです。兄たちはわずかなところで、罪を犯すことを免れました。勿論、殺そうと思っていたことの罪は問われるのかもしれませんが、具体的に手を下さずにすんだのです。殺そうと思っていたけど、穴に投げこむだけにした。イシュマエル人にヨセフを売ってしまおうと思っていたけど、実際にヨセフを売ったのはミディアン人だった。いつもぎりぎりのところで兄たちの罪は回避されて、神さまは兄たちを守ったのです。兄たちの思いを知りながら、殺したいほどヨセフが憎いという兄たちの思いを知りながら、だからこそ神さまは兄たちが罪を犯すことをおゆるしにならなかった。神さまは常に兄たちのそばにいて、兄たちが道を踏み外すことのないように守られたのです。ヨセフが兄弟たちにとらえられてエジプトに売られてしまうという悲劇の中にあっても、常に神さまの救いの御手はのばされ続けていたのです。

兄たちはヨセフを亡き者にして、うさを晴らそうとしていました。ヨセフだけが愛されることに納得ができず、父の愛を求めていました。兄たちは穴に投げ込む直前にヨセフの晴着を脱がしていますが、ここにも父を求める兄たちの姿が見えるように思います。兄たちと父の関係がこじれているがゆえに、ヨセフが犠牲になったとも言うことができます。思いがけないねたみから、悲劇が生まれます。しかしこの悲劇の中に、神の救いがわずかに見えるのです。兄たちがぎりぎりのところで弟を殺すという罪をおかさずに済んだこと。そしてヨセフがエジプトに売られたがゆえに、ヤコブの一家は飢饉から守られて、アブラハム、イサク、ヤコブと続く神の祝福が続いていくこと。いつも悲劇のそばで神は見守り、道を備え、私たちを導いていてくださるのです。

聖書を読み始めた頃は、ヨセフの波乱万丈な人生に目を奪われて、自分だったらどうするだろうか?自分だったらとても耐えられないなぁと思いながら読んでいました。しかし今回改めて1節ずつ読んでいきますと、兄たちの心の変化に同情せざるをえない思いでした。自分だけが理不尽な目にあっているんじゃないか、努力が報われないんじゃないか、別の人だけがいい思いをしているんじゃないか。普段の生活の中で、兄たちと同じような思いに囚われることが多いと気づいたからです。けれども、神さまはそのような時こそ側にいて、私たちを励まし、導いておられる。そして罪を犯すことのないように、私たちを守っておられる。自分は正しいことをしていると胸をはって言えるような人生ではありませんが、しかし神によって守られて、かろうじて生きることがゆるされている。少し大げさな言い方をすると、神の正しさが貫かれるために弱い私たちが生かされていると言ってもいいのかもしれません。

瀬戸永泉教会は献堂式を迎えて、新しいステージに入りました。以前と比べると明るくて開放的な礼拝堂になりました。以前の少し暗い礼拝堂も趣きがあってとても好きなのですが、このように明るい礼拝堂に身を置いていると、心まで明るく灯がともされるような気がします。ヨセフ物語の悲劇の中に神の救いが光り輝いていたように、この瀬戸永泉教会がこの世の苦難や試練の中にあっても、いつも神の光が輝きだすような、そのような教会であってほしいと願っていますし、ここにいる私達1人1人が、神さまの大切な御用のために呼び集められていることを覚えつつ、また新しい一週間の旅路を歩んで参りたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま、献堂式を終えて、新しい教会の歩みが始まりました。

私たちにこのような素晴らしい会堂をお与えくださったあなたが、次はどのような計画を秘めているのかとわくわくしています。どうぞあなたのご用のために瀬戸永泉教会を、そこに集う1人1人を用いてください。この世の暗く、みじめな場所に、あなたの救いの光が届きますように。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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