9月28日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会     民数記32:1~19「ルベン族とガド族の土地」    2022.9.28

 エジプトを出たイスラエルの人々は荒れ野を40年間さまよい、いよいよ目的地である約束の地カナンに近づいています。約束の地に入るための様々な準備が行われています。そもそも約束の地はどこからどこまでなのでしょうか。私たちが持っている聖書についている聖書地図3、カナンへの定住を見ると、ヨルダン川が真ん中に流れ、その東西にまたがっていることが分かります。しかし、今日の聖書の箇所を読んでいると、約束の地はヨルダン川西側のみであると考えられていることが分かります。それが、変わるのが今日の内容のポイントだと思います。

 民数記21:21~35、シホンとオグに対する勝利という内容ですが、そこでは、イスラエルの人々が約束の地に入る前に、アモリ人の王シホンとバシャンの王オグの土地を奪い、占領し、その地に住んだとあります。そうであるならば、すでに約束の地の征服と占領は始まっていると考えられます。今日の箇所である民数記32章では、ヤゼルとギレアドの地方をルベン族とガド族の人々が見渡したとあります。この2つの地方は、主がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった土地(4節)とあります。ルベン族とガド族の人々はおびただしい数の家畜を持っていた(1節)というのです。このヤゼルとギレアドの地は、家畜を飼うのに適した土地だったとなっています。そして、このルベン族とガド族の人々は、この地に住みたいと願い、モーセに申し出ます。

 このルベン族とガド族の人々の申し出は、神の意志に反していたようです。土地の分割は、くじ引きで決まるとありました。(民数記26:56)そして、最も大きな問題は、約束の地がヨルダン川西側だけだと考えられていたことです。すでに、ヨルダン川の東部の一部は征服し、占領し、人々は住み始めていたのですが、ここは矛盾が起って来ます。ヤゼルとギレアドの地がすでにイスラエルの人々のものになっていきました。しかし、約束の地ではないと考えられていたのでしょうか。モーセにとって、ルベン族とガド族の申し出は、かつての苦い経験を思い出させることになってしまいました。

 40年前に、イスラエルの人々はエジプトを出て、シナイ山において、神と契約をし、神の民としての歩みを始めていました。神の民として生きるということは、神が与える約束の地において、神の教えに従って生きるということでした。その約束の地を目の前にするまでやって来ました。そこで、イスラエルの人々は、各部族から1人ずつ代表者を出し、約束の地を偵察することしました。この偵察は、いかに約束の地を奪い、自分たちのものにするかということの参考と準備のためだったと思います。それが、結果的には約束の地には入らないという選択になってしまいました。このイスラエルの人々の判断は、神の意志というか導きに反するものでした。そのために神の怒りの中で、イスラエルの人々は荒れ野を40年間さまようことになってしまったのです。モーセには、この時と同じように、ルベン族とガド族の判断は見えてしまいました。

 モーセは、ガドとルベンの人々にいいます。「同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたちは、この地にとどまるつもりなのか。なぜ、主が与えてくださる土地に渡って行こうとするイスラエルの人々の心を挫くのか。あなたたちの先祖も、わたしが近くから約束の地を見たときに、同じようなことをした。12人は約束の地を偵察したが、人々の心を挫いて、土地に行かせまいとした。そのために、主は激しく憤り、誓って、約束の地に入らせない。わたしに従わなかったからである。そして、40年間荒れ野をさまようことになる」と。さらに「罪人であるあなたがたが父に代わって立ち上がり、またもや主の激しい怒りをイスラエルの上に招こうとする。もし、あなたたちが主に背くならば、主はまたもや、この民を荒れ野に置き去りになさり、あなたたちがこの民を滅ぼすことになるであろう」と。このようにモーセの厳しい言葉がルベン族とガド族の人々に語られます。

 すると、ルベン族とガド族の人々はモーセにいいます。「わたしたちはまずここに、群れのために羊の石囲いをつくり、子どもたちのための町をつくります。しかし、わたしたちは武装して、イスラエルの人々の先頭に立って進み、人々を約束の地に導きます。わたしたちは、イスラエルの人々がそれぞれの嗣業の土地を受け継ぐまで、家に決して戻りません。ヨルダン川の向こうで、人々と共に土地を受け継ぐつもりはありません。わたしたちの嗣業の土地はヨルダン川の東側にあるからです。」と。

 今日の内容のポイントは、すでにイスラエルの人々が、ヨルダン川の東側の一部を占領し、住むようになっていたこと、そして、ルベン族とガド族の人々は、自分たちが先頭になって、進軍していくことを約束したことにあると思います。40年前の失敗は、先住民は強く、入って行って戦いを挑むと負けてしまうから逃げるべきだということでした。今度は、そうではなく、自分たちが進んで戦って行くとしたからです。考えてみれば、イスラエルの人々はエジプトで長く奴隷としての生活をしていました。戦うことに慣れていなかったのかもしれません。エジプトを出たばかりの時は、戦うことに恐れてしまうことが先だったと思います。そして、40年間という荒れ野の放浪の生活で、イスラエルの人々は鍛えられていったのでしょう。神の民として歩むために、40年間というものが必要だったのです。目にはみえないですが、神がイスラエルの人々を訓練され、神の民としてふさわしいものにされていったのです。

 イエス様が、神の働きをされる前に、40日間の断食の時を持ちました。悪魔との戦いの時でもありました。そのような訓練の時が必要だったのです。私たちの信仰生活もそのような訓練の時を過さなければならない時もあるのです。

祈り 神よ。祈りと聖書の学びの時をありがとうございます。イスラエルの人々は、荒れ野の40年間の歩みの中で、様々な困難と向き合っていました。その中で、進行の訓練というか、神に従うことの意味を深めることができていきました。私たちの信仰生活の中でも、いろいろな困難と試練と向き合います。そのような時に、これは生きていくために必要なことだと受け止めることができる思いを与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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