2月9日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会    民数記7:30~65「イスラエルの指導者のささげもの②」  2022.2.9

 この民数記7章は、全部で89節あり、とても長いものです。それで3部に分けて、みています。今回は、2回目です。この民数記7章は、幕屋が完成して、モーセが、幕屋とすべての祭具に油を注いで聖別しました。その中で、祭壇に油が注がれる日に、イスラエルの12部族の指導者たちが、祭壇奉献のためのささげものを携えて来ました。この時に、1日1人ずつささげることになるのです。

第1日目はユダ族のナフション、第2日目はイサカル族のネタンエル、第3日目はゼブルン族のエリアブでした。今日の内容は、第4日目はルベン族のエルツル、第5日目はシメオン族のシュルミエル、第6日目はガド族のエルヤサフ、第7日目はエフライム族のエリシャマ、第8日目はマナセ族のガムリエル、第9日目はベニヤミン族のアビタンです。各部族の代表者のささげものですが、すべて同じものです。130シュケルの銀の皿1枚、70シュケルの銀の鉢1個、穀物のささげものとして、オリーブ油を混ぜた上等の小麦粉、香をもった10シュケルの金のひしゃく1個、焼き尽くすささげものとして、若い雄牛1頭、雄羊1匹、1歳の雄の小羊1匹、贖罪のささげものとして、雄山羊1匹、和解のささげものとして、雄牛2頭、雄羊5匹、雄山羊5匹、1歳の雄の小羊1匹です。同じささげものをささげていることは、神の前でささげものをする時に、すべての者が平等であることを示しているのです。

さて、イスラエルの人々のささげものについて、広い視点で考えてみたいと思います。イスラエルの人々は長い間、エジプトで奴隷でありましたので、ほとんど持っていなかったと思います。しかし、エジプトを出る時に、神が働いて、イスラエルの人々は、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めることができるようにしてくださったのです。

出エジプト記12:35~36

イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。

 このエジプト人からの金銀の装飾品が、大きな罪を犯す結果となってしまいます。イスラエルの人々は、エジプトを出て、シナイ山のふもとまでやってきました。ここでは、神と契約を結び、律法を授かることになります。指導者モーセは1人で、シナイ山の山頂に上り、神から契約の石の板を授かります。シナイ山のふもとでは、人々が不安の中にありました。そして、今まで導いてくださった神ではなく、エジプトで拝んでいた偶像を拝んでしまうのです。

出エジプト記32:1~2

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」

 このように、モーセの兄アロンが、人々に指示して、身に着けていた金を集め、金の子牛の像を造り、拝んでしまうのです。エジプト人からの金銀の装飾品がなければ、このような罪を犯すことはなかったのかもしれません。神の裁きがあり、この時に、レビ人が祭司としての役割を与えられたことにもなりました。神の裁きがありましたが、神は、イスラエルの人々と再契約をしてくださったのです。人々は深い感謝の中で、幕屋をつくるように、神から指示を受けるのです。この罪の反省の中で、人々は進んでささげる気持ちになっています。

出エジプト記35:21,36:5~7

心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。モーセに言った。「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます。」モーセが宿営に、「男も女も、聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」との命令を伝えさせたので、民は携えて行くのをやめた。既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった。

 イスラエルの人々が、幕屋をつくることになった時に、これほど心を動かされて、ささげものを持ってきたことは、大きな罪を犯したにも関らず、神が再契約をしてくださったことが大きかったのだと思います。その経験の中で、自分たちの持っているものは、神のものであり、神から預かっているものだと知ることができたのです。自分の命も、健康も、財産も、すべてが神のものであり、私たちは神から一時的に預かったものだと理解したのです。この理解は、私たち自身にとってもとても大切なことだと思います。私たち自身も、そのような信仰を持って、歩んでいきたいものです。

祈り 神よ。祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。自分の持っているもの、命、健康、時間、財産など、それはすべて神からの預かったものであり、いつかは返すものです。日々の生活、すべては自分のものであるかのように生活しています。しかし、そうではなく、神からの預かりものだと思って、日々の生活をより豊かに歩むことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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