7月30日の礼拝の内容です。

礼拝

7月30日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.280.394.452.26です。

礼拝説教      ヨブ42:1~6「この目で神を仰ぎ見る」    2023.7.30

 

 7月の最後の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますようにと祈ります。

 礼拝では、使徒言行録を読んでいますが、今回は、少し変えて旧約聖書のヨブ記を読んでいきたいと思います。旧約聖書のヨブ記は、知恵文学の中に入っています。詩編や箴言などのイスラエルの知恵といわれる中に入っています。ヨブ記のテーマは、人間の苦しみについてです。人が生きているといろいろ苦しみや苦難や悲しみがあります。どうして、人間は苦しまなければならないのか、人間はどうして悲しまなければならないのか、考えていくのです。私たちも自分の人生の歩みの中でも、いろいろな苦しみや悲しみを味わっていきます。時には、その自分の苦しみや悲しみを通して、ヨブ記から考える時も必要なことだと私は考えています。

 ヨブ記は全部で、42章もある長いものです。最初の2章と終りの42章は、普通の文章になっていますが、3章から41章は、散文になっています。前半は、ヨブと3人の友人の3回に渡る論争、後半は、若者エリフの弁論、そして、神の登場ということになっています。

 ヨブ記の1~2章で、ヨブのことが書かれてあります。ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れて、悪を避けて正しく生きていたとあります。家族は妻と7人の息子と3人の娘がいたとあります。ヨブは多くの財産を持っていました。羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、めろば500頭を持ち、使用人も多かったということです。ヨブは、東の国一番の金持ちとあります。ヨブは理想的な人間として登場しているのかもしれません。ヨブは、神を畏れ、悪を避けて生きていた、多くの家族がいた、多くの財産を持っていたというのです。

 話は急に変わり、神とサタンのとのやり取りになります。神はサタンに「ヨブを見てごらん、ヨブほど、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と紹介しています。するとサタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。神はヨブを祝福しているではありませんか。ヨブとその一族、全財産を守っているではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばしてヨブの財産に触れてごらんなさい。面と向かって神を呪うに違いありません」と神にいうのです。すると神はサタンに「それでは、ヨブのものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし、ヨブには手を出すな」といっているのです。

 そして、ヨブの苦難が始まっていきます。すべての財産を失うことになります。他の遊牧民が襲って来て、家畜を奪い、使用人も殺されてしまいます。次に妻を除く10人の子どもたちを一瞬に失います。10人の子どもたちが、長男の家に集まって宴会をしていました。そこに強風が吹いて、家が倒れてしまい、すべて死んでしまうのです。この時に、ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」といって神を非難することなく、罪を犯さなかったのです。次に、神とサタンとのやり取りがあって、ヨブは重い病気になっていくのです。頭の上から足の裏までひどい皮膚病にかかるのです。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしっていきます。ヨブの妻は「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といいますが、ヨブは「お前まで愚かなことをいうのか。わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」といって、罪を犯すことはなかったとなっています。ヨブの親しい3人の友人が、ヨブの苦しみを聞いて、見舞い励ますためにやって来るのです。3人の友人は、1週間、ヨブと共に地面に座っていましたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることができなかったとなっています。

 しかし、ヨブの内容は、3章からが本番となっていきます。3章で、ヨブは自分の生まれた日を呪っています。

ヨブ記3:1~3

やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。

 そして、ヨブと3人の友人の激しい論争が始まっていきます。ヨブの主張は、どうして、神を正しく信じて来た自分が、このような苦しみを味わわなければならないのか。神はどうして、自分にこのようなことをするのかというものです。それに対して、3人の友人の主張は、神は正しく間違うことをすることがない。人間は、神の前では罪人であり、ヨブも罪人であり。何かしらの罪を犯したから、このような苦しみを負うことになったのだ。すぐに、自分の罪に気づき、神に赦しをこい、苦しみから解放してもらうべきだということです。激しい論争が続いていきます。でも、最後までかみ合うことはありませんでした。

 ヨブは、その苦しみの中で、神にむかって叫び続けるのです。神よ、どうして、正しい私が、このように苦しまなければならないのですか。もし、私に罪があるというのなら、神よ。答えてください。私の罪が何であるかを、示してくださいと。この世界では、正しいと思われる者が苦しみ、逆に悪人と思われる者が、悪を裁かれることなく、繁栄をおうかしている。この世の矛盾を訴えています。ヨブ記32章からは、若者エリフの登場です。ヨブと3人の友人との論争が終ります。ヨブは自分が正しいと確認していて、それを友人は止めることができなかったからです。エリフは、自分は若者であるので、今までは遠慮していた。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、エリフは怒るのです。3人の友人もヨブに対して罪があることを示す適切な反論を見い出すことができなかったので、怒っています。若者エリフがいうことは、神は正しく、ヨブは正しくないということです。

 ヨブ記を読んでいて考えることは、ヨブの神への信仰の強さです。ヨブは、自分が苦しむ意味を、神に問うています。神に訴えているのです。しかし、3人の友人やエリフは答えていますが、神ご自身は沈黙したままです。何も答えてくださらないのです。何度も何度も、ヨブは神に訴えています。問いかけています。それでも、神は沈黙をしています。何も答えてくれないのです。私なら、すぐに神の問うことを、訴えることを止めてしまうでしょう。ヨブはしないのです。神に問うことを止めないのです。神に訴えることを止めないのです。ここにヨブの神への信仰といいますか、信頼があるのだと思います。ヨブにとっては神しかいないのでしょう。神だけが、ヨブ自身の存在のすべてなのです。

 そして、ヨブ記38章になって、急に嵐の中から神が登場して来るのです。ヨブに答えていくのです。ヨブの神への問いは、ヨブ自身の苦しみの意味です。ヨブに罪はあるのかということでした。そのヨブの問いを無視するかのように、神は嵐の中から、ヨブに答えて仰せになります。それは、神の圧倒的な存在をいっています。

ヨブ記38:2~4

これは何者か。知識がないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというのなら、理解していることを言ってみよ。

 神の全知全能を、神ご自身でヨブにいっているのです。41章まで、それは続いていくのです。それで、今日のヨブ記42章になります。ヨブは神に答えていくのです。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」(ヨブ記42:2)ヨブはここまで全身全霊で、神に答えを求めていました。神が全知全能の姿で、ヨブに答えてくださった。ここに、ヨブは神と本当の出会いをすることができたのです。ヨブは「あなたのことを、耳にしていました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」(ヨブ記42:5)と答えています。ヨブは、自分が平安で順調な人生の歩みの時は、神のことは知っていましたが、知識として受け止めていたにすぎなかったのです。それが、自分の厳しい苦しみを通して、神を真剣に求め、神との出会いをすることができたのです。それで、ヨブは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めることができたのです。(ヨブ記42:6)

 ヨブ記を通して、私たちが学ぶことは、私たちは味わう苦しみや悲しみ、そのことを通して、神と本当に出会うことができるということです。そのことを私たちはそれぞれの人生の中で、神と出会うことができているのでしょうか。

祈り 神よ。ヨブ記を通して、人間の苦しみの意味、悲しみの意味を考えて来ました。神と出会うこと、それは、私たちが人生の中で、幸せであり、順調な時には出会うことができず、人生の苦しみの中で、深い悲しみを通して、あなたと出会うということでした。苦しむことや悲しむことは嫌なことですが、あなたと本当の出会うことができるということで、その苦しみを前向きに受け止めていくことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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