12月21日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会     申命記3:18~29「聞かれる祈りと聞かれない祈り」    2022.12.21

 神の御心はどこにあるのかと考えるととても難しいものです。祈りについて考えてみたいと思いますが、祈りは神との会話です。祈りは、私たちが神に語り掛けるものです。昔は、神が直接本人に語り掛けることもありました。現代では、聖書を通して、神が私たちに語り掛けるものです。祈りですが、いろいろな内容の祈りがありますが、ここでは願いを中心に考えていきたいと思います。私たちが願っていることを神に願って祈るわけですが、その願いの内容によって、すぐに適えられるもの、後で適えられるもの、そして適えられないものがあります。その区別は難しいものです。

 エジプトを出たイスラエルの人々は、荒れ野の旅を経て、今や、神が与えてくださる約束の地を目の前にする所までやって来ました。そこで、モーセは、イスラエルの人々に神の民として約束の地に入る前に、その大切な内容を語っているものです。ヨルダン川西岸が、約束の地と考えられていました。それが、イスラエルの人々がヨルダン川東岸のヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグを戦って破り、土地を征服しました。ヨルダン川東岸がイスラエルの人々の土地になってしまったのです。その土地は家畜を飼うにはふさわしい場所だったとなっています。そこで、家畜を多く持っていたルベン族とガド族の人々が、その土地を自分たちに与えて欲しいと願いました。モーセは最初、反対しましたが、彼らが、自分たちは先頭に立って戦って行きますといったことで、了承されました。

 繰り返しますが、イスラエルの人々が約束の地に入ること、それは約束の地はヨルダン川西岸であり、東岸は入っていませんでした。それが、戦って土地を手に入れることができ、そこにルベン族とガド族が入って行きたいと願い、神によって許可されました。つまり、約束の地の変更となったということです。神は、その御心を柔軟に変更することができるということでした。申命記3:18~22は、進軍の命令ですが、ここでモーセは、ルベン族とガド族と、マナセの半部族の人々に、「主は、この土地をあなたたちに与えて、それを得させてくださった。戦士たちは皆武装して、イスラエルの人々の先頭に立って、ヨルダン川を渡って行きなさい。妻子と家畜は、すでに与えられた土地にとどめておきなさい。ヨルダン川西岸の征服と土地の割り当てが終れば、あなたがたはすでに与えられた土地に帰ってもよい」と答えています。この後で、モーセはヨシュアを励ましています。神が共にいて戦ってくださるので、恐れることなく、歩んでいくようにと。

 申命記3:23~29では、モーセの願いが出ています。モーセは主に祈り求めています。「主よ、どうかわたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」と。実は、民数記20章のメリバの水の場面で、モーセは神の怒りにあい、約束の地に入ることはできないといわれているのです。ある場所で、イスラエルの人々が水を飲むことができない状況にありました。この時に、イスラエルの人々はモーセに逆らって不平をいうのです。「なぜ、私たちをこのような土地に連れて来たのですか。ここで私たちを死なせるためですか。どうして、私たちをエジプトから連れて来たのですか。ここでひどい所です。種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、飲む水さえないではありませんか。」と。モーセは、ここで切れてしまっています。「反逆する者らよ。聞け。この岩からあなたたちのために水を出さなければならないのか。」といって、モーセは手を挙げて、その杖で岩を二度打ちますと、水が出てきて、イスラエルの人々全体と家畜も水を飲むことができました。しかし、神はモーセに対して怒り、「あなたはわたしを信じることができず、イスラエルの人々の前で、神が聖なることを示すことができなかった。それゆえ、あなたは約束の地に入ることができない」とされたのです。

 岩を二度打ったことで、神を信じなかったといわれています。そのことで、モーセは、約束の地に入ることができないと神からいわれてしまいました。それがあって、モーセは、神の憐れみにすがり、どうか、約束の地に入らせてくださいと願っているのです。しかし、神の答えは厳しいものでした。モーセは、あなたたちのゆえに、神はわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかったといっています。もちろん、モーセ自身にも問題はあったわけですが、イスラエルの人々のせいにしています。神はモーセに「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前は、このヨルダン川を渡って行くことはできない。自分の目でしっかりと見ておくがよい。あとはヨシュアに任せるから、彼を励まし送り出しなさい」というのです。

 このようにモーセが、神に願ったことが、聞かれないのです。祈りが、神によって聞かれる場合と聞かれない場合があることを知ります。私たちの主が神であることを、改めて知らされます。新約聖書で、有名な箇所して、ゲッセマネの祈りをあげることができます。イエス様が神に祈りました。「父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と。イエス様の十字架を前にしての祈りです。イエス様は十字架につきたくないと願い、しかし、最後は、神の御心のままにしてくださいと祈っています。そして、イエス様は十字架の道を選び、進んで行かれました。私たちにとって、神の御心を知ることはとても大切ですが、それを知ることはとても難しいことです。ただ、モーセの場合にもいえることですが、自分の願いをすべていっても構わないということです。その結果がどうなるかは分かりませんが、いうことに制限はありません。

祈り 神よ。モーセのことを通して、聞かれる祈りと聞かれない祈りについて考えてきました。私たちはあなたに対して何でも願いをいう自由が与えられています。そのことに感謝します。その祈りの後は、あなたの御心に委ねます。どうか、いつもあなたに信頼して歩むことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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