1月22日の礼拝の内容です。

礼拝
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讃美歌は、474(1)563(1)575(1)91(1)です。今週は天候が守られますように。

礼拝説教         マタイ27:62~66「復活する希望」     2023.1.22

 聖書ではないのですが、「自分の正しさが相手を傷つける」という言葉があります。今日の説教の内容は、この言葉を受け止めて、考えていきたいと思っています。「自分の正しさが相手を傷つける」ということですが、人間が行う最大の悲しさである戦争は、自分の正しさを主張し、相手を殺すことだと思います。自分の正しさとはどのようなことなのでしょうか。

 マタイによる福音書を読んでいます。イエス様は十字架につけられて、殺されました。アリマタヤのヨセフによって墓に葬られました。今日の聖書の内容は、イエス様が墓に葬られた後のことです。振り返ってみると、イエス様が十字架につけられたのが、金曜日です。午後3時には、十字架上でなくなったのです。もう少しで日没が近づいていました。日没になれば安息日が始まります。安息日は、イスラエルの人々にとって特別に大切な日です。この日は神を礼拝する時で、仕事などを一切してはならないとされていました。通常の活動が再開されるのは、日曜日の朝ということになります。マタイ28章で、安息日が終り、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう1人のマリアが、イエス様の墓を見に行っています。安息日が終ってからの行動です。安息日が終らないと通常の活動はできないはずなのです。そのことを一番に注意していたのが祭司長たちや律法学者たちでした。

 ところがです。62節には、明くる日、すなわち、準備の日の翌日、つまり安息日に、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ローマ総督ピラトのところに集まるのです。安息日を大切している彼らが、安息日を破っていることになります。本来なら考えられないことです。祭司長たちや律法学者たちは、ピラトのもとに集まって、「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたときに、自分は3日後に復活するといっていたのを、私たちは思い出しました。ですから、3日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て、イエスの死体を盗み出し、イエスは死者の中から復活したなどと民衆にいいふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」といいます。ピラトは「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」といいます。そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおきました。

 祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエス様を十字架につけて殺しました。それで、彼らの目的は果たしたはずでした。しかし、不安が残っていたのです。それは、イエス様が生前にいっていた「自分は十字架につけられ、殺されるけれど、3日目に復活する」との内容が気になっていました。「3日後に復活する」となれば、今、処置していかなければならないと感じ、安息日にも関わらず、してはいけない行動をしてしまったのです。何を一番大切にしていたのか分からなくなります。

 祭司長やファリサイ派の人々、律法学者ですが、その登場は悲しい出来事があったからでした。神の民として約束の地に住んでいたイスラエルの人々は、バビロン捕囚という困難な時を迎えました。バビロニアがイスラエルに戦いを挑んできました。その結果、敗れてしまい、多くのイスラエルの人々がバビロニアの首都バビロンに奴隷として連れていかれたことです。このバビロン捕囚は、イスラエルの人々にとって多くは挫折を味わうことになっていくのです。どうして、このような悲劇を自分たちは味わうことになったのだろうか、神はどうして、私たちを見捨てられたのだろうかと思ったのです。そして、彼らは知りました。バビロン捕囚が起ったことが、自分たちが神を信じていなかったからだ、神の教えを無視して歩んでいたからだ。だから、神からこのような罰を受けたのだと深く反省したのです。

 神の教えに立ち戻ろう。神の教えをもう一度、しっかりと聞き、それを守り実行していこうとしたのです。その流れの中で、律法学者が登場してきたのです。律法をしっかりと守り実践していこう。律法、十戒は大切なことが書かれてありますが、結構大まかです。細かいことまで書いていません。特に、第4戒の安息日を守ることについてはそうなのです。安息日を守ることは、安息日に、仕事をしてはならないと書いてあります。その仕事とは何かは書いていないのです。そこで、律法学者は、その安息日にしてはならない仕事の内容を細かく決めていきました。日常生活の細部にわたり、仕事とそうでないこととを決めていきました。それが、細かくなりすぎてしまったといえるのです。自分たちが決めた細則を守ることに人生のすべてをかけるようになってしまったのです。律法の大切な精神を落としてしまったのです。

 1つの例として、マタイ12:9~14、手の萎えた人をいやす場面があります。イエス様は安息日に会堂に入られました。そこには片手の萎えた人がいました。人々はイエス様を訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法に許されていますか」と尋ねています。安息日に治療をすることは、仕事をすることになり、禁じられていました。そこで、イエス様は「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手を引き上げてやらない者があるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」といわれます。そして、手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」といいます。手を伸ばすと、もう一方の手のように元どおりになりました。これでよかったはずでした。しかし、ファリサイ派の人々は出て行って、今後、どのようにしてイエス様を殺そうかと相談しています。

 安息日を守ることに、人生のすべてをかけていたファリサイ派の人々は、イエス様が安息日に、手の萎えた人の手を治したことで、律法違反として、イエス様を殺そうとまでいているのです。それなのに、イエス様を十字架につけ、殺し、墓の葬った後でも、3日後に復活するかもしれないとして、自分たち自身で、大切にしていた安息日を破っているのです。

 祭司長たちやファリサイ派の人々は、自分たちは正しいことをしていると信じて、行動していると思います。自分たちの教えや考えは、神の御心にかない、正しいことをしていることを疑ってはいないでしょう。神を正しく信じて、従っている。その行動が、イエスという人は神の教えを破っている。だから、十字架につけて殺してしまわなければならないと決心し、そのように歩んできました。本当に悲しいことです。このイエス様を十字架につけた人々、祭司長たちや民の長老たち、律法学者たち、ファリサイ派の人々、自分たちの正しさを神の正しさとしていました。そして、神の子を、十字架につけて殺してしまったのです。それが、神の御心であると、心から信じて疑っていませんでした。

 彼らを見るたびに、彼らと私たちはどこが違うのだろうと考えてしまいます。まったく違うと思っているでしょうか。私たちは日常生活の中で、いろいろな思いを持って過ごしています。そして、自分が何をして行動しているかと考えると、これは自分にとって大切なことだ、何よりもこれをしていかなければならないと考えて行動しています。教会も多くの人々が集まっています。そして、いろいろな考え方をしています。いろいろな思いを持っています。1人1人違っています。教会として大切なことを決めることがあります。決めて行かなければなりません。その時に、話し合って、1つの方向が示されて、決定していきます。それが教会の歩みですが、そうではないこととして考える人も思う人もいます。その流れの中で、違う考えの人を、あの人は間違っていると思いますし、そう判断してしまう場合があります。この時に、注意が必要だと思います。自分たちが正しいと思っていることによって、違った考えの人を批判してしまうことになります。私たちは本当に弱い罪深い存在だと思います。

 聖書のいう罪とは、自分が神になることです。自分は正しい、間違いないと思っていること、私たちは神を信じていく中で、自分自身が神になってしまう危険性と持っています。私たちはいつもイエス様の十字架の前にひざまずく必要があります。イエス様は、いったい誰のために十字架についてくださったのでしょうか。それは、あなたのためです。この私のためです。本当に自分を見つめることが求められています。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活を信じて生きていく信仰生活の中で、最も大切なことです。私の罪のために、イエス様は十字架について死んでくださったのです。

 イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉の中に「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは自分のしていることがわからないのです」というのがあります。このイエス様の祈りは、私たちすべてのための祈りです。イエス様の十字架はそのことを示しています。自分たちは罪人であって、義人は一人もいないのです。だから、私たちには、イエス様の十字架が必要なのです。イエス様の葬りに対して、祭司長たちファリサイ派の人々は、イエス様の墓を見張ることにしました。しかし、神のご計画は変わることがありません。イエス様は墓の中から復活されるのです。私たちにはイエス様の十字架の死と復活を信じます。死は終りではなく、復活する希望を持っています。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。祭司長やファリサイ派の人々の矛盾する行動を見てきました。彼らの弱さがそこにはありました。でも、この弱さは彼らだけのものではなく、私たち自身の弱さでもあります。自分の罪と弱さを受け止めつつ、イエス様の十字架を前にして、信仰生活を送ることができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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