4月30日の礼拝に内容です。

礼拝

4月30日の礼拝に内容です。讃美歌は、28.575.326.573.27です。

礼拝説教     創世記3:1~24「楽園に通じる道」(小椋実央牧師)   2023.4.30

2023年度、4月の最後の主日を迎えました。イースター礼拝に続いて、先週は総会を無事に開くことができました。3年間、コロナ禍にあって、また会堂建築のためにCS館で礼拝を守りながら、様々な制約の中にありましたけれども、このように少しずつ教会の活動が活気を取り戻していることに本当に感謝です。一箇所に集まってみ言葉を聞くこと、賛美歌を気兼ねなく大きな声で歌って賛美すること、これらのことが決して当たり前のことではなくて、かけがえのない時を過ごさせていただいているのだ、ということを学ばせていただきました。日曜日ごとの礼拝も様々な方が準備をしてくださって、また集います私たちも仕事や家庭のことを様々に段取りをつけて、健康をゆるされて、時をゆるされてここにいることがゆるされている。何よりも神さまがそのように望んでくださって、私たち一人ひとりをかけがえいのない存在として名前を呼び、この場所に集めてくださっている。その喜びをよく味わいながら、感謝の思いを持ってみ言葉にあずかり、1週間の旅路を始めて行きたいと思います。

創世記のみ言葉が朗読されました。おそらくどなたでも一度は聞いたことのある物語。そしておそらくどこの教会にも、この場面を描いた絵本が備え付けてあると言い切ってもいいぐらい、教会学校でもおなじみの物語と言ってもよいかもしれません。たいていは裸の男女、アダムとエバが描かれていて、美しい果樹園、実をつけた木がたくさんある。どこからか少し嫌な感じの蛇がしのびこんできて、人間を誘惑する。誘惑された人間が、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまう、というお話です。本日お読みした3章の冒頭にも、太字で蛇の誘惑という小見出しがつけられています。この太字の部分は聖書の本文にはない文章で、後から便宜的につけられたものです。この箇所にはだいたいこういう内容のことが書いてある、という目安になるもので、それが便利な時もありますし、かえって小見出しに翻弄されて不便に感じる時もあって一長一短なのですが、いずれにせよ聖書本文の言葉ではありませんので、今日のような礼拝で司式者が朗読する時には小見出しは読まないということになっています。さきほど一長一短だと申し上げたのは、たとえば本日の箇所ですと蛇の誘惑という小見出しがついていて、そうなると人間というのは「そうか、今日の話は蛇が人間を誘惑する話なのだ」と思い込んでしまうところがあります。何よりも私自身がそうなのですが、一番最初にそうだと思ってしまうと、なかなか後から内容を書き換えることが難しい。特に年齢を重ねれば重ねるほど、自分の考えを改める、或いは新しい考えを受け付ける、ということが難しくなってくるような気がします。

長らく私も、この話は蛇が誘惑する話だと思って読んでいました。と言うのも、3章の書き出しが蛇の自己紹介のように始まっている。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは枌であった。」(1節)これを読むと益々、これは蛇についての話が始まるんだな、と思ってしまう。しかし改めて読んでみますと、そもそも蛇は善悪の知識の木から食べることを人間に命令したわけでもないし、食べるといいですよと誘ったわけでもありません。蛇がしたことは、神さまとは正反対の意見を言った、ということ。神さまは2章の17節のところで、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言っておられます。それに対して蛇が言ったのは、「食べても決して死ぬことはない。」という、神さまの言葉を否定する言葉でした。確かに蛇は賢かったのかもしれません。何よりも、人と会話をすることができる。まるで人のように交流ができる。しかし蛇があたかも人のように交流できると言っても、蛇は蛇なのです。人間と同等ではありません。蛇がどんなに賢くて、人間のように言葉を操るからと言って、その言葉を全て鵜のみにする必要はどこにもないのです。それどころか、真向から否定すればいいだけのことです。蛇が「食べても決して死ぬことはない。」と言ったところで、「いやいや、神さまは食べると死んでしまうと言ったのだから。」とはっきりと否定すればいいだけのことです。そもそも人間に求められているのはそういうことです。蛇と同等になって、蛇と仲良くすることが求められているのではありません。創世記の1章によれば、人間と他の被造物は支配する側とされる側という厳然たる違いがあります。支配するというのはただ威張ってふんぞり返っているというのではありません。責任があるということです。全ての被造物に対して、正しく守り、保護する努めがある。いたずらに他の被造物の言いなりになるということは、すでにそこから創造の秩序の破壊が始まっているのです。

何故人間が、正しくは何故女が、ここで蛇の言うことに屈してしまったのか。それは蛇が人間をしのぐほど賢かったからではありません。人間が初めから神さまの言葉を聞きそこなっている。或いは聞いたかもしれないけれども、別の言葉に書き換えられてしまっているからです。神さまと人間との間にどのような約束がかわされていたのか。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」それほど複雑な約束ではありません。すべての木から食べてよいというのは約束というよりは許可です。厳重に注意されていたのは善悪の知識の木から食べてはいけないということ、そして食べたら死んでしまうという警告です。しかし女は神さまとの約束をこのように受け止めました。「わたしたちは・・・食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」(3節)一見すると、神さまの言葉を丁寧に噛み砕いたとも取れなくもありません。しかし、女は神さまの約束に一箇所だけ付け加えました。「触れてもいけない。」という一文です。小さな齟齬が起きている。神さまの言葉を正しく聞きとることができないところで、罪は生まれます。道を間違ってしまう。道を踏み外してしまう。正確に言えば、神さまの言葉を聞いていなかったわけではありません。むしろよく聞いていた。神さまの言葉を聞いている、という安心感が油断を生み出したのかもしれません。その油断の中に、賢い蛇がするりと入り込んできた。創世記の3章は蛇が誘惑した話でもなく、賢い蛇の話でもなく、人間が神の言葉を聞き違えたという話。いや、聞くには聞いたけれども、神さまの言葉を置き換えたという話。いずれにせよ蛇に責任はありません。神の似姿として造られ、すべての被造物を支配する人間として、蛇に責任を負わせることはできません。蛇が人間を誘惑したのではない。蛇は小道具であって、脇役であって、主語は人間でなければなりません。人間が誘惑をされた、いや、人間が道を踏み外したという話。しかも、正しく神の言葉を聞きとっていれば起こるはずのなかったこと。神さまの言葉を書き換えずに正しく受け止めていれば起こらなかったこと。被造物を支配する人間という創造の秩序と、神さまとの善悪の知識の木をめぐる約束とを正しく受け止めていれば間違えようのなかったこと。しかし負の連鎖はまたたくまに広まってしまいます。男と女の楽園追放という悲劇は善悪の知識の実を食べる前からすでに始まっていたことなのかもしれません。

不思議なことに、善悪の知識の木からとって食べたところで、突然命を絶たれるということはおきませんでした。そこで起きたのは自分が裸であることを知ったこと。相手が裸であるのを知ったということでした。なぜ死に至るのではなくて、裸であることを知る、という展開になるのか。これはひとつの言葉遊びになっています。賢いがアルーム、裸がアローム、そして呪いがアルールという似たような言葉になっている。賢くなる実、アルームを食べて、裸アロームであることを知って、呪いアルールを受ける。アルーム、アローム、アルールという似たような言葉を並べている。この物語自体が言葉遊びという形をとっています。

ですから私たちはこの物語を読んでいると唐突に裸の話題が出て来て少し面食らうのですが、聖書の時代の子供たちはアルーム、アローム、アルールという似たような言葉が呪文のように並んでいるのを聞くと、何やら面白おかしい昔話のようにこの物語を聞いて育ったのかもしれません。それならばこれはただの言葉遊びだから、裸という話題は大して意味がないか、と言うとそうとも言い切ることができない。これまでは当たり前のように目の前にあったものが、見たくないもの、見せたくないものに変わった。たかだか葉っぱ数枚程度ではありますが、男と女の間にささやかな境界線が生まれます。神の似姿として造られた相手を隔てるということは、神そのものの存在を遠ざけるということになります。そしてお互いの裸の姿に幻滅をしたということは、神に似せて造られたということを考えると、神に対して失望したとも言えなくもない。善悪の知識の実を食べて得た知識は、神を遠ざけるということ。裸というのはただの語呂合わせではなくて、言葉遊びではなくて、神に従わないという悪の知識を象徴する1つの単語でもあるのです。

物語は最悪の展開を迎えます。男は女に責任転嫁をして言います。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べてしまいました。」対する女も蛇に責任転嫁をします。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」2人と蛇は神さまから呪いを受けて楽園から追放されてしまいます。しかし、そこかしこに見られる神さまの憐れみに目をとめないわけにはいきません。神さまを恐れて隠れる2人に神さまはこのように言うのです。「どこにいるのか。」人間からすれば広大な敷地の楽園も、神さまから見れば大した広さではないはずです。ましてや2人がどこに隠れているか分からないはずがありません。しかしあえてこうおっしゃるのです。「どこにいるのか。」もっと言うならば、2人が手をのばして実をとって食べようとしていることを阻止することもできたはずだし、食べてすぐに二人を懲らしめることだってできたはずです。しかし、そうはなさいませんでした。

日常生活の中で、神さまに泳がされている、と感じることがよくあります。こうしなさい、もっとはっきりと道を示してくれればいいのに、と思うことがあります。悪い方向に行ってしまいそうな時、全力で引き止めてくれればいいのに、と思うこともあります。実は神さまはいつも何もしないで、手をこまねいているだけではないかと疑いたくなる時もあります。神さまは私たちをあらかじめ同じようにプログラムした人間ではなくて、それぞれ個性的な、唯一無二の存在としてお創りになりました。私たち一人ひとりが自由な意志を持って、強制されてではなくて、自由な意志で神さまを信じることを望んでくださいました。ですからこの時も、神さまは待っていたはずです。「食べてはいけないと言われていた善悪の知識の実を食べてしまいました。ごめんなさい。」この言葉を待っていたはずです。ですからすぐに二人を問い詰めることはしませんでしたし、二人が「はい、ここにいます、神さま」という素直な返事を期待していました。神さまは最後の瞬間まで、謝罪の言葉を聞きたいと思っていたし、謝罪の場所を自ら整えるということもしてくださいました。

神さまに立ち返るのに遅すぎるということはありません。なんなら神さまが呪いの言葉を述べている最中にでも、二人は神さまにすがってもよかったのです。しかし二人がそうすることはありませんでした。神さまは二人と蛇に呪いの言葉を語ります。初めは蛇に、次に女、最後に男、アダムです。蛇は這いまわり、女は産みの苦しみを与えられる。しかしアダムには直接の苦しみではなく、アダムを通り越して土に対して呪いが与えられた。土は茨とあざみをはえ出でさせる。しかし、まったく地の実りを生み出さないわけではありません。それでも尚、地の実りを求めて生きていくことがゆるされるのです。呪いの中に、細くしかし途切れることのない神さまの憐れみがはっきりと示されるのです。

人は楽園から追放されました。追放と同時に、楽園にあるもう一本の木、命の木を守るためにケルビムときらめく剣の炎を置かれました。ケルビムは人間の顔を持ち、翼を持った動物。人間を超える存在で、神の使いのようにも言われます。そのケルビムと剣とで神さまは命の木を守りました。それは命の木の実を食べられることが惜しいからではありません。むしろその逆で、人が間違って罪のままで永遠に生きることのないように、アダムを守るためにケルビムと剣を置いたのです。

私たちは楽園から追放された放浪者です。戻る場所を忘れ、いや戻る場所を知ってはいるけれども自力で戻ることはできない。唯一可能なのは、楽園の側から伸ばされる道にとらえられてしまうことです。楽園とは言い難い、おおよそ楽園からは程遠い罪にまみれたこの場所に、神さまは手をさしのべてイエス・キリストという一つの道を示してくださいました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」この唯一の道を通って、私たちは楽園へと通じることができます。これ以外の道で、これ以外の方法で楽園に至ることはできません。今日、アダムは楽園を追放されました。しかし同時に、それは楽園へと招かれる道の始まりでもありました。私たちはイエス・キリストという唯一の楽園に至る道を知っています。私たちをとらえて楽園に招いてくださるために、イエスさまは十字架におかかりになり三日目に復活なさった。このことを心から喜び、感謝して受け止めたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。礼拝の恵み、あなたの言葉にあずかる恵み、共に祈る恵みを感謝します。あなたの言葉を正しく聞き分けることができますように。あなたに示された恵みを素直に受け取ることができますように。私たちをひとりのこらずあなたの庭に、永遠の楽園へと招いてください。

楽園に至る道が今ここからすでに始まっていることを確信させてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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